測度0なブログ

数学、映画・本の感想・解釈 あくまで個人の見解です。

女の勘について考える

女と男‥このアダムとイブの時代から続く階層秩序的二項対立は脱構築されうるが依然として両者の間には多くの差異が実存する。これは私の完全なる経験に基づくものだが男性は論理的に話すのを好むのに対して女性は直感に働きかける話し方に秀でていると感じる。話し方の参考になるので彼女らとの会話もそんなに嫌いではない。

 

さて、本題に入るがよく「女の勘」という言葉を耳にすることがあると思う。嘘をついているのが見抜かれているだとか浮気をしているのを何となく勘付かれているだとかよくありそうな話だ。これらの「女の勘」というものは科学的に根拠付けることが可能である。

 

男と女の生殖機能の差異について考えてみよう。男は多数の女性と関係を持つことに対してのリスクが少ない。あるとすれば性病くらいだ。自分の高校の先生の言葉を借りれば彼らは流し込むことしかできない。ゆえに彼らは子孫をより多く残すために多数の女性と関係を持とうとする。

一方で女性はというと彼女らは一旦その身に我が子を身ごもってしまうと一定期間の間、自分の活動に制限が生じてしまう。男性と比較にならないほど彼女らのリスクは膨大なのだ。ゆえに彼女らは自らのパートナーの選定に関して慎重に事を運ぶ。

ここまでくると「女の勘」というものについてある程度分かってくる。彼女らは自分が身ごもってしまうと身動きが取れなくなってしまうので自分のパートナーがどこかへふらっと行ってしまわぬように目を光らせなければならない。結果として彼女らの観察眼は発達し相手の些細な変化も見逃さずに仮説を自ら打ち立てそれを相手に突きつける。そう、「女の勘」は進化生理学的に考えれば容易に解釈できるのだ。

しかし、そんな常に見張られているようなギクシャクした関係が果たして我々が本当に望むことなのだろうか?そのような居心地の悪さは結果として男性の生産性を低下させ、能力を十分に発揮できないことに繋がりかねない。実を言うと多少の浮気を許容している間柄の方が男性は出世しやすいという研究もあるほどなのだ。あまり大きな声では言えないがパートナーに出世して欲しいと望むのであれば多少の遊びは許してあげることが生涯年収の上昇につながるであろう。

 

ただしこれらはすべて科学的に考えた場合の話だ。トルストイが言うように科学は我々がどう生きるべきかについての解答を与えてくれない。所詮は統計でありその傾向性が強いということであり個人すべてに当てはまることではないのだ。浮気なんてしなくても奥さんがいればモチベーションmax!これはこれで素晴らしいことであるし世の中を上手くやっていきやすいだろう。

映画「タイタニック」~自由への飛翔~

言わずとしれた世界的大ヒットを記録した映画「タイタニック」。自分も子供の頃に繰り返し見た記憶が残っており海に対する恐怖だとか目の前で何かとてつもないことが起こっていると子供ながらに感じた印象がある。

 

そんなタイタニックだがTOHOシネマズで午前10時から過去の名作を再びスクリーンで上映するという企画が行われており先日、鑑賞してきた。

 

asa10.eiga.com

 

芸術作品を鑑賞する上で面白い点は様々な視点から考察・解釈を行うことが可能であることだ。経済学的に見て資本主義からもたらされる貧困問題について考察しても面白いかもしれないが今回はよそう。

この映画の素晴らしい点を挙げるときりがないが特に各俳優陣の演技は圧巻である。特にローズの母親のゴミを見るような目だとか救助ボートに乗り込んだローズを見つめるジャックのなんとも言えないような表情は最高だ。

では具体的な内容の考察をしていこう。まず、世の中のメルヘン心を持つ者たちには悪いが心理学的に見るとローズとジャックの恋愛は短期的なものと言わざるを得ない。突然出会った自分の知らない世界を見せてくれる者との情熱的で熱い数日間、これとナンパに差異はあるか?世間の人間がこのようなシチュエーションに憧れを少なからず持っていることもヒットの要因の一つと言えるかもしれない。ちなみにメンタリストのDaigoからの入れ知恵だが短期的な恋愛なら自分と違う世界を持っていると思わせることが重要なファクターであるが長期的な恋愛を望むのであれば知性と親切心だ。ただし、これは男に限る。もちろん映画は娯楽なのでこんな細かいことは気にせずに自分を映画の中のキャラクターに投影してラブロマンスを楽しむ見方も当然アリだ。

 

見方を変えよう。ローズは上流階級のしきたりや束縛にうんざりしている。あるいはより抽象化してある集団の中でのイデオロギーや常識と考えても良いかもしれない。

彼女と上流階級との食い違いは彼らを代表するような存在であるフィアンセとの関係からも伺える。当時、名が売れていないピカソやモネを痛烈に批判していたのは盛大なる皮肉だ。そんな折に自由を代表するような存在であるジャックが現れる。ジャックへ引きつけらるのは彼女の自由への渇望だ。絵描きのジャックは彼女の心の叫びを見極め組織からの救出を図る。母親がローズのドレスの紐をしっかりと結ぶシーンがあるがこれは組織へと今一度、鎖でつなぎ直すことを暗示している。そして、かの一番有名なあのシーンだ‥

 

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夕焼けをバックにした息を呑むような美しいシーン‥

「飛んでるわ!」

鳥かごから自由への飛翔を遂げたローズはジャックと熱い口づけを交わす。さすがの自分も胸キュンした笑

 

そして船の氷山衝突からはそれまでの雰囲気からは一転してパニック映画へとその様相を変える。色々な人間の生き様があるがここではローズとジャックに焦点を絞って話を進める。

そして船は沈み冷たい海に放り出されたジャックとローズだがジャックはローズを残し、凍死してしまう。命を助けられたり、自由に生きる手助けをしてもらったジャックとの決別は一人で強く生きていくことの決意の表れと言えるだろう。

そして彼女は強く生きた‥辛いこともあったろうがそれを含めて人生を謳歌した。やりたかったことはすべてやった。

 

これは単なる恋愛ものではなく大空を羽ばたく鳥のような自由への飛翔の物語なのである。

 

超人になれなかった人間達

ニーチェの超人思想をご存じだろうか?超人と聞くとスーパマンのような地球を救うヒーローなようなものを想像しがちだがニーチェの言う超人というのはそれとは異なる。

超人というのはこの世界にはこびるあらゆる善と悪の価値構造を破壊し自らが価値基準の創始者となる者だ。これが分かるとニーチェの言う有名は言葉「神は死んだ」ということが自ずと理解できるだろう。では、なぜ凡人ではなく超人になる必要があるのか?

凡人は既存の価値基準の奴隷だ。皆と同じことをするのに安心感を持ち決まりを破ることに怯え既存の価値基準にすがりついて生きている。そしてその決まりを破った者を見出した途端に糾弾する。

 

自分は決まりを守っているのにあいつはなんなんだ!

 

このような凡人共の批判的姿勢をニーチェルサンチマンと呼んだ。

よってこのようなルサンチマンに翻弄されずに自分の自由な選択を行いさらにそれを肯定していくには超人になる必要があることが結論づけられる。

ニーチェは超人へのなり方については言及していない。それは各々が自ら決めていくことだからである。

 

一方で世間一般のニーチェに対する評価はあまりよろしくない。原因としてはナチスドイツによる大量虐殺だ。彼らの主張を見てみよう。

「俺達は超人だ!何でも自分で決められるんや!ユダヤ人気にいらんから殺したろ」

 

これはニーチェを理解できていない。そのような結論が出る訳がないのだ。

なぜなら殺人という行為の動機は弱者のルサンチマンによるものだからだ。超人がルサンチマンを持ち得る訳がなく明らかに矛盾である。

 

このようにニーチェを分かっていない者達のせいでニーチェの評価が下がるのは非常に不快だ。受け取り手のほうに問題があるのは明らかだろう。

超人になっても殺人鬼になることは決してない。何者にも捕らわれない自由な存在…あなたも志してみてはいかがだろうか?

嫌われる勇気〜貢献感を持つとは〜

嫌われる勇気…中々不思議な言葉だ。世の中を見渡しても自分から他人に嫌われたいという人間はよっぽどひねくれている者くらいだろう。そのためになぜわざわざ勇気なのか?一見会い交わることのない言葉たちのようだがなんとなく魅了されるというのが私の第一印象だ。

 

本の詳しい内容を記述するのは面倒なので省略するが自分らしく生きるには他人から嫌われることを恐れずに自己を貫く…超大雑把に言ってこんな内容だ。

他者からの軽蔑を恐れずに自分をさらけ出すのは分かる。自由でありたいならそれは当然の帰結と言えるだろう。

しかし、自分をさらけ出した後に具体的にどのように行動していくか、人生の目標として次のようなものが掲示される

 

「他者に対して貢献感を持つこと。それが自己の幸せにつながる」

 

この本の冒頭で若干ではあるもののソクラテスについて言及されているが、このように人生の大きな目標を1つ固定してしまった途端に我々はイデア論的構造を発見する。すなわち、その目標を達成するべき行動のみが善と規定され我々の自由は制限を受けてしまうのである。

やりたければやれば良いし誰も何も言わない。ただし、それだけが全てという訳ではないし本当に自分でやりたいことなのかよく考えろって話だ。

 

ここまでは一般論だが私個人の見解に関して言えば他人のためになる行動のみに私の行動を制限するつもりは毛頭ない。結果として他者貢献が生まれる順序関係の逆転は起きることもあるだろうが自分の人生は好きに使わせて貰うとしよう。

中々ひどいことを言っているようなので弁明しておくと他者への貢献感を優先する生き方も当然ありだ。愛する家族と一緒に幸せそうに暮らしている者達を私は何組も知っているしそこで貢献感を得る生き方も悪くないだろう。

あと、嫌われる勇気の人生をより良く生きるために思索する姿勢も素晴らしく人間関係のあり方は大変面白く参考になるのでおすすめだ。

それでは今日も良き一日を。

オリジナルとは

 世の中には二種類の人間がいる。自分と、他人である。そして《全て他人の作品はコピーである。》これはどういう意味か。
 例えば僕がサルトルの小説『嘔吐』を読んだとする。Kさんも『嘔吐』を読んだとする。僕とKさんが『嘔吐』について語るとき、二人の意識にある『嘔吐』は同一だろうか? 否、同一ではない。なぜなら、二人の意識にある『嘔吐』は『嘔吐』そのものではないからだ。テクストは読まれる過程で、読み手の思考、経験、認識、意味付けなどによって変質する。カント風に言うなら「本質とは不可知なものである」となるか。つまり、『嘔吐』そのものを、捉えることはできない。僕らが『嘔吐』をイメージするとき意識に現れるのは『嘔吐』の本質のコピーである。そういう意味で、《全て他人の作品はコピーである。》と言える。付け加えて言うなら、他人の書いたものを読む行為は、他人の思考をトレースする行為である。ショウペンハウエル曰く「読書とは、他人にものを考えてもらうことである。」この意味でも、《全て他人の作品はコピーである。》と言えよう。
 さて、他人の作品ではなく、自分の作品の場合はどうだろうか。これは場合による。メルロ・ポンティの言葉を借りれば、自分の作品の中でも真にオリジナルな作品と呼べるものは、「構想が実行に先立たない」作品である。これはどういう意味か。
 例えば、宮崎駿のような映画創りでのみオリジナルな作品が生まれ、宮崎吾朗のような映画作りではコピーの作品しか生まれない。宮崎駿は映画創りに取り掛かるその時、まだ構想を固めてはいない。あるのはただ〈ぼんやりとした熱のようなもの〉である。そういう状態で絵コンテをひたすら描く。完成して初めて、どういう映画を創りたかったのか悟る。それがオリジナルな作品の創り方である。作品と解釈が同時発生的なのである。
 対して宮崎吾朗には、最初から表現したい思想がある。それを表現するための作品を作る。つまり構想が実行に先立っている。これではオリジナルな作品を創りだすことはできない。なぜなら、この作品は表現したい思想の劣化コピーにしかならないからだ。同じように、作品の受け、人気、需要などを考慮しながら作られた作品も、コピーにしか成り得ない。なぜならその作品は、作者が考える、皆が好きな作品の姿をコピーしたものだからである。コピーの作品は不朽の名作に成り得ない。なぜなら、一つの構想に依っているため、解釈の多様性に乏しいからだ。つまり時が移り、その構想が通用しなくなった時、その作品は朽ちる。不朽の名作は、多様な解釈が可能であるが故に、時間の経過で朽ちることがないのだ。
 結論。真にオリジナルな作品と言えるものは、構想が実行に先立たなかった自分の作品のみである。まずは自分で何か創ってみる、話はそれからだと考える。ただ、必ずしもオリジナルな作品だからと言って優れた作品だとは言えない。それはまた少し別の話である。

エクリチュールの温度を感じよ

「テクストには二種類ある。一度読めばその内容がすっかり分かってしまうものと読むたびに発見があるものである。」

 

これはデリダの言葉である。一度読めば内容がすっかり分かってしまうものとはまぁ、大衆向けに書かれた推理小説や恋愛小説などでありこれらはストーリの意外性などで読むものを惹きつける。これらを読むのも中々面白い。読書が苦手な方はこのような類いのものを読んで徐々に本を読むという行為に慣れていくといいのではないだろうか。しかし、これらの書籍は分かりやすい分、読者の解釈の幅を狭める可能性があり再読を行ったとしても得られるものはそう多くないと考えられる。

もっと言ってしまえば解釈の幅が狭い書籍は作者が意図している思想やストーリー展開が先に立って存在することが多い。従ってその書籍の中の登場人物たちは作者の思想・もしくはストーリー展開を達成する一つの駒でしかなくそこからは人間の本来持つリアリティーが失われることが往々にして起きる。(文体を駆使してそれらを覆い隠している者も多い。物を書くのが仕事なだけあってさすがだ。)筆者の考えを伝えたいだけであるならそれは論文で良くわざわざ小説などのフォーマットを取る必要性はない。(これらのものをジェットコースターと比喩している人物がいて私はそれが気に入っている)

 

一方でデリダの言う読むたびに発見があるもの、これは何だろうか?もうお気づきだと思うがこれと対比をなすものだ。

つまり、多様な解釈が可能であり読むたびに前回読んだ時に持たなかった考えを持つようになるものである。こっちの類いのものはもうなんでもありだ。登場人物たちは作者の呪縛から解放され各々が好き勝手振る舞いなんら整合性などは持たず、そこからは読み手に応じた多くの解釈が生まれる。

 

整備された道を進むのも良い。綺麗な景色を見れるだろうしそれなりのおもてなしはされる。

しかし、前の見えない道を自分の経験や思考から開拓していき未踏の絶景に到達すること。個人的には後者の方にロマンや楽しみを感じるのである。

善悪の彼岸に立て

あなたの目の前にハンバーグとステーキがあってどちらか1つだけを食べれるとしよう。さて、あなたはどちらを選択するだろうか?

 

仮にハンバーグを選んだとしよう。美味しく食べているところにある連中がこう言う

「えー、なんでハンバーグ?絶対ステーキのほうが脂とか載ってて美味しいよ」

 

こんな野暮なことを言う連中が本当に存在するかどうかはさておき、あなたはこう思うかもしれない

「あの時ステーキを選んでおけば良かった」

と。

 

しかしだ。このステーキ派の連中の主張は全く正当性を持たない。いくら脂がのっているステーキとはいえその脂が自分に合わないかもしれない、または食後につらい胃もたれになってしまうかもしれない。しかし一方でハンバーグを食べることが絶対的に正しいという主張もこれは正しくない。

ハンバーグがいいかステーキがいいかという判定は片方のみを食べるだけでなく両方を食べた後の解釈によって始めて為される。しかしこれは不可能なのだ。結局正しい選択などは存在しないということが結論づけられる。

 

この構造は人生で出会う数々の選択を行う中で必然的に現れる。自分が選択を行った後に残るのは他人の無責任の解釈のみだ。現実にはこれを恐れを抱いて思うような選択ができない人間が多いように思える。

心細さはもちろんあるだろう。しかし、このような不安を振り切り自分の選択を絶対的に肯定していくこと。これこそが本当の自由であるということに思える。