測度0なブログ

数学、映画・本の感想・解釈 あくまで個人の見解です。

エクリチュールの温度を感じよ

「テクストには二種類ある。一度読めばその内容がすっかり分かってしまうものと読むたびに発見があるものである。」

 

これはデリダの言葉である。一度読めば内容がすっかり分かってしまうものとはまぁ、大衆向けに書かれた推理小説や恋愛小説などでありこれらはストーリの意外性などで読むものを惹きつける。これらを読むのも中々面白い。読書が苦手な方はこのような類いのものを読んで徐々に本を読むという行為に慣れていくといいのではないだろうか。しかし、これらの書籍は分かりやすい分、読者の解釈の幅を狭める可能性があり再読を行ったとしても得られるものはそう多くないと考えられる。

もっと言ってしまえば解釈の幅が狭い書籍は作者が意図している思想やストーリー展開が先に立って存在することが多い。従ってその書籍の中の登場人物たちは作者の思想・もしくはストーリー展開を達成する一つの駒でしかなくそこからは人間の本来持つリアリティーが失われることが往々にして起きる。(文体を駆使してそれらを覆い隠している者も多い。物を書くのが仕事なだけあってさすがだ。)筆者の考えを伝えたいだけであるならそれは論文で良くわざわざ小説などのフォーマットを取る必要性はない。(これらのものをジェットコースターと比喩している人物がいて私はそれが気に入っている)

 

一方でデリダの言う読むたびに発見があるもの、これは何だろうか?もうお気づきだと思うがこれと対比をなすものだ。

つまり、多様な解釈が可能であり読むたびに前回読んだ時に持たなかった考えを持つようになるものである。こっちの類いのものはもうなんでもありだ。登場人物たちは作者の呪縛から解放され各々が好き勝手振る舞いなんら整合性などは持たず、そこからは読み手に応じた多くの解釈が生まれる。

 

整備された道を進むのも良い。綺麗な景色を見れるだろうしそれなりのおもてなしはされる。

しかし、前の見えない道を自分の経験や思考から開拓していき未踏の絶景に到達すること。個人的には後者の方にロマンや楽しみを感じるのである。