測度0なブログ

数学、映画・本の感想・解釈 あくまで個人の見解です。

オリジナルとは

 世の中には二種類の人間がいる。自分と、他人である。そして《全て他人の作品はコピーである。》これはどういう意味か。
 例えば僕がサルトルの小説『嘔吐』を読んだとする。Kさんも『嘔吐』を読んだとする。僕とKさんが『嘔吐』について語るとき、二人の意識にある『嘔吐』は同一だろうか? 否、同一ではない。なぜなら、二人の意識にある『嘔吐』は『嘔吐』そのものではないからだ。テクストは読まれる過程で、読み手の思考、経験、認識、意味付けなどによって変質する。カント風に言うなら「本質とは不可知なものである」となるか。つまり、『嘔吐』そのものを、捉えることはできない。僕らが『嘔吐』をイメージするとき意識に現れるのは『嘔吐』の本質のコピーである。そういう意味で、《全て他人の作品はコピーである。》と言える。付け加えて言うなら、他人の書いたものを読む行為は、他人の思考をトレースする行為である。ショウペンハウエル曰く「読書とは、他人にものを考えてもらうことである。」この意味でも、《全て他人の作品はコピーである。》と言えよう。
 さて、他人の作品ではなく、自分の作品の場合はどうだろうか。これは場合による。メルロ・ポンティの言葉を借りれば、自分の作品の中でも真にオリジナルな作品と呼べるものは、「構想が実行に先立たない」作品である。これはどういう意味か。
 例えば、宮崎駿のような映画創りでのみオリジナルな作品が生まれ、宮崎吾朗のような映画作りではコピーの作品しか生まれない。宮崎駿は映画創りに取り掛かるその時、まだ構想を固めてはいない。あるのはただ〈ぼんやりとした熱のようなもの〉である。そういう状態で絵コンテをひたすら描く。完成して初めて、どういう映画を創りたかったのか悟る。それがオリジナルな作品の創り方である。作品と解釈が同時発生的なのである。
 対して宮崎吾朗には、最初から表現したい思想がある。それを表現するための作品を作る。つまり構想が実行に先立っている。これではオリジナルな作品を創りだすことはできない。なぜなら、この作品は表現したい思想の劣化コピーにしかならないからだ。同じように、作品の受け、人気、需要などを考慮しながら作られた作品も、コピーにしか成り得ない。なぜならその作品は、作者が考える、皆が好きな作品の姿をコピーしたものだからである。コピーの作品は不朽の名作に成り得ない。なぜなら、一つの構想に依っているため、解釈の多様性に乏しいからだ。つまり時が移り、その構想が通用しなくなった時、その作品は朽ちる。不朽の名作は、多様な解釈が可能であるが故に、時間の経過で朽ちることがないのだ。
 結論。真にオリジナルな作品と言えるものは、構想が実行に先立たなかった自分の作品のみである。まずは自分で何か創ってみる、話はそれからだと考える。ただ、必ずしもオリジナルな作品だからと言って優れた作品だとは言えない。それはまた少し別の話である。