善悪の彼岸に立て
あなたの目の前にハンバーグとステーキがあってどちらか1つだけを食べれるとしよう。さて、あなたはどちらを選択するだろうか?
仮にハンバーグを選んだとしよう。美味しく食べているところにある連中がこう言う
「えー、なんでハンバーグ?絶対ステーキのほうが脂とか載ってて美味しいよ」
こんな野暮なことを言う連中が本当に存在するかどうかはさておき、あなたはこう思うかもしれない
「あの時ステーキを選んでおけば良かった」
と。
しかしだ。このステーキ派の連中の主張は全く正当性を持たない。いくら脂がのっているステーキとはいえその脂が自分に合わないかもしれない、または食後につらい胃もたれになってしまうかもしれない。しかし一方でハンバーグを食べることが絶対的に正しいという主張もこれは正しくない。
ハンバーグがいいかステーキがいいかという判定は片方のみを食べるだけでなく両方を食べた後の解釈によって始めて為される。しかしこれは不可能なのだ。結局正しい選択などは存在しないということが結論づけられる。
この構造は人生で出会う数々の選択を行う中で必然的に現れる。自分が選択を行った後に残るのは他人の無責任の解釈のみだ。現実にはこれを恐れを抱いて思うような選択ができない人間が多いように思える。
心細さはもちろんあるだろう。しかし、このような不安を振り切り自分の選択を絶対的に肯定していくこと。これこそが本当の自由であるということに思える。